諸橋茂一の言語道断

平成16年4月

〈その一〉

「あまりにもひどい中国の反日施設」(要旨)

(※詳細リポートは約30頁程度になると思います。もしも、御希望の方は、ファックスかメールで御連絡頂ければ、後日お送りさせて頂きます。)

 

去る3月20日から3月28日まで、中国へ行って来た。その主な目的は、「『(所謂)南京大虐殺記念館』を始めとして、中国各地に造られているという『反日記念館』の現状確認と、今年は日露戦争開戦100年目にあたる為、日露戦争の戦跡を見て回り、「多くの戦没者の方々の慰霊をしたい」という2つであった。

 近代史について、非常に詳しく研究され、多くの著書を出しておられる(元高千穂商科大学教授)名越二荒之助先生を団長として、自衛隊の戦史研究所で、長期に亘り戦史の研究を続けてこられた永江太郎氏を始め、近代史について良く勉強しておられる方々を中心とした総勢32名の「歴史探訪ツアー」であった。



訪問地は、上海、南京、北京、沈(瀋)陽、大連、旅順の6都市だった。各地で訪問した主な所は、上海では、「爆弾三勇士の廟行鎮、四行倉庫、烈士墓苑(竜華霊園)、孫中山故居、等」、 南京では、「雨花台烈士稜園、中華門、中山陵、汪兆銘の墓跡、霊谷寺、九華山公園、美齢宮、国際安全区、侵華日軍南京大屠殺遭難同胞記念館(南京大虐殺記念館)、下関(シャーカン)、把江門、長江大橋、等」 北京では、「八宝山革命烈士墓苑、万里の長城、戦車記念館、空軍航空博物館、蘆溝橋、中国人民軍抗日戦争記念館(蘆溝橋記念館)、同記念公園、天安門広場の人民英雄記念碑、等」 沈(瀋)陽では、「柳条溝の9・18記念館,張作霖邸、故宮等」 大連・旅順では、「旅順要塞跡、東鶏冠山北堡塁、203高地、水師営会見所、金州南山戦跡、大連埠頭、満鉄本社跡、」 等を僅か8泊9日で回った。相当な強行軍であった。

 結論から先に書く。とにかく酷い、酷すぎる。これまでに、産経新聞や「月刊・正論」を始めとして、複数の書籍等で「南京大虐殺記念館等」の出鱈目さについて、読んではいたが、あまりの酷さに、中国に対する強い怒りが込み上げてくるのを押さえ切れないほどであった。

 「南京大虐殺記念館」にしても、「9・18記念館」(撮影禁止となっている)にしても、その展示内容は、殆どが出鱈目である。

 「南京大虐殺記念館」には、多くの人骨が並べられている。そして、それらは、全く何の科学的な検証もされずに、それらの全てが日本軍に虐殺された民間人の人骨であると説明してある。館内には、幽愁の怪しげな音楽が流れている。「日本軍は、放火、強姦、虐殺、略奪、無法の限りを尽くした」という説明がこれでもか、というくらいに、罵る様に展示してある。(以前に資料で見ていた)「農作業から村に帰る婦女を日本軍が守って一緒に歩いている写真」には、「日本軍が婦女子を虐殺する為に連行している写真」 と全く出鱈目なキャプションがついている。

以前にも、触れてはいるが、南京大虐殺と言われていることは、その殆どが、国際法に大きく違反して行われた「(いわゆる)東京裁判」の中で、いきなりでっち上げられた創り話である。

 日本軍が、南京で、蒋介石軍と戦ったのは、昭和12年12月9日から同12月13日までの4日間であり、日本軍が南京を攻落したのは、同12年12月13日である。「その時、南京市内には、約20万人の民間人が居た。」という記録があり、「その約1ヶ月後には、5万人、人口が増えて25万人となっていた」という記録が残っている。しかも、「当時、日本軍の後を追いかける様にして、200名を超える世界のマスコミ関係者が南京城内に入って取材を続け、世界に向けて報道を続けていた。」 という状況であった、ということである。正に衆人監視の状態であったのである。その様な状況の中で、どうして僅か1ヶ月の間に30万人もの民間人を殺戮出来るであろうか?いや、前述のとおり、当時南京には、20万人しか民間人が居なかったのである。それなのに、どうして30万人も殺すことが出来るのか?もしも、30万人殺し続けている様な状況の中で、1ヶ月後に、25万人になっていたというのであれば、約35万人の人々が後から入って来たということである。連日、1万人もの人々が虐殺され続けていたとしたならば、そこは正に地獄である。その様な地獄の状況の中へどうして、35万人もの人々が入って来ることが出来るのか?もしも、その様な状況が続いていたならば、それは、世界的大事件である。その様な大殺戮が本当に続いていたならば、当時、そのことは大ニュースとなって世界を飛び巡っていたはずである。しかも、仮にその様な事が続いていたとしたら、重機も無い当時、手作業で、おびただしい死体の処理、埋葬も出来るはずがない。しかし、当時その様な内容の大ニュースは報道されていないのである。南京に居た約20万人を超える30万人もの人々が殺されたことが仮に事実だというのであれば、当時の日本軍は、手当たり次第に民間人の殺戮を続けたと言う事になる。もしもそれが事実であると言うならば、当時、南京に居た22名の欧米人も巻き添えとなり、欧米人も全員殺されていても決して不思議ではないであろう。処が一人も殺されていないどころか、一人も怪我さえしていない。いや、怪我さえしていないどころではない。仮に、その様な状況が続いていたならば、普通の人間ならば、すぐに、必死にそこから逃げ出すであろう。処が、それらの欧米人は、その当時、南京から逃げ出したという記録はない。いや、それどころか、全く逆に、当時、南京に居た欧米人は、日本軍に対して、感謝の意を表している記録さえ残っているのである。こんな摩訶不思議な事があるはずが無いであろう。

 当時、蒋介石軍は、日本軍とまともに戦っては全く勝ち目がない、ということで、「便衣隊」という名で、民間人の服装で、いきなり日本軍に襲いかかる、要するにゲリラ戦を仕掛けてきた、という状況があったので、日本軍としても応戦・反撃せざるを得ない。そうすれば、日本軍に射殺された便衣隊の兵士を見て、実情を知らない人が、民間人が殺されている、と勘違いした例もあったかも知れない。それとは、別に、日本軍に敗れて南京城外に逃げ出そうとする蒋介石軍兵士を督戦隊という蒋介石軍兵士部隊が、多数の中国兵を撃ち殺したという例も相当あったようである。

 その様な事も、勝手に日本軍のせいにされてしまったものもあるのかも知れない。 

 もしも、万が一に、当時の日本軍に、民間人を無差別に殺戮する様な異常な体質が仮にあったのであれば、南京だけではなく、その後8年間続いた支那事変の間、中国のあらゆる都市で同様の事を続けたであろう。もしもそうであるならば、その犠牲者数は、30万人どころではなく、何百万人、いや何千万人もの民間人を殺戮し続けていなくては、つじつまが合わなくなってしまう。我が日本軍は、断じてその様な事はやっていないのである。

 東京裁判の際、「スマイスとティンパーリー」のリポート並びに著作が有力な証拠とされた。処が何と、「実は彼らは、蒋介石の国民党軍から資金をもらって、出鱈目なものを書いた広報宣伝部員であった。」ということが、近年明らかとなっているのである。

 南京大虐殺たるものが、如何にとんでもない大きな嘘であるかは、冨士信夫著「南京大虐殺はこうしてつくられた」や中村粲(あきら)著「大東亜戦争への道」並びに渡部昇一著「かくて昭和史はよみがえる」 等を読めば、誰でも良く分かる。

 「南京大虐殺」などという大嘘は、米国が、国際法に大きく違反して、我が国の民間人を100万人近くも虐殺してしまった為に、それを追求させない為に、東京裁判の中で、一方的に、米国と中国が組んででっちあげたのである。

 昭和12年12月7日付け北国新聞、つまり、日本の主力軍が未だ南京に到着する前、南京よりも数q手前にいた状態での新聞に、「南京には猛煙が上がっている」という記事が掲載されている。つまり、日本軍が南京に到着する以前に、蒋介石軍は、「清野作戦」と称して、南京市内の建物を焼き払っていたのである。その様な事までも、中国は、「それも日本軍がやった」などと、全くとんでもない嘘をついているのである。同館には、前述のとおり、「日本軍は、建物を焼きつくし、女と見れば、少女も老婆も見境なく犯し、民間人を見境なく虐殺し、見境なく略奪し、無法の限りを尽くした」と正に罵る様に、これでもか、というくらいに全く酷い出鱈目を書いているのである。

 この南京大虐殺記念館では、その様な事が間違いない事実であるという前提で、正に嘘八百の展示がなされている。全くとんでもないことである。正に「嘘八百出鱈目陳列館」である。

 この出鱈目陳列館に、村山富市や土井たか子並びに野中広務の様な我が国の馬鹿な反日政治家が来て、頭を下げ、署名までしている。その写真なども展示されている。全くお粗末極まりない。彼等は一体全体、何処の国の政治家なのか?近代史について不勉強極まりない為、歴史観、国家観、世界観が余りにも大きく欠如している。その様な低レベルで、正に売国奴的な行動を平気で取っている。実にお粗末極まりない。言語道断では済まない、出鱈目である。

 この出鱈目記念館に、我が国の馬鹿な日教組や高教組の教師連中が、我が国の中学生や高校生を修学旅行に連れて来て、多くの千羽鶴をこの会館の入り口の辺りに掛けさせている。その他、日教組の団体や各種労働組合の千羽鶴も多数掛けられている。学校で、完全に歪んだ歴史観を植え付け続け、その上、駄目押しの様に、こんな馬鹿な嘘八百の展示館を見せて、我が国の多くの中学生や高校生の自虐意識を増幅させ、精神を大きく歪めてしまっていることは、大きな犯罪である。

 今年の3月1日から、この出鱈目記念館を中国人に対して無料開放にした為、中国人の入場者が一気に増えているそうである。戦後、日本人を「鬼子」と教え続けられている中国人が、この様に出鱈目なものを見せられたら、彼等は、我が国に対して、より一層の憎悪を増幅させるだけにしかならないのは極く明白なことである。

 私は、中国人ガイドの戴さんに言った。「戴さん、この様なものは、(日中友好どころか)『日中友好阻止記念館』ですよ」と。

 この出鱈目記念館を、中国は何と、今後50億円以上もかけて、更に大増設しようとしているのである。全くとんでもないことである。また同様な反日施設を全国に何と18も造っているということであり、それらの殆どは、江沢民が造らせているということである。実際、各反日記念館には、大きな文字で、江沢民のサインが掲示されている。江沢民はとんでもない男である。彼が、今の中国の最高権力者であるということが、今回中国を訪問してみて良く分かった。

 沈(瀋)陽の9・18記念館はもっと酷い。

 入り口から、「日本は侵略の限りを尽くし……」と書いてある。中に入ると、我が国を罵る様に書き連ねてある。「日本は、明治維新以来、世界征服をたくらみ、まずその手始めに、中国征服をたくらんだのである。」、「日本関東軍は、細菌戦を行う為の秘密部隊を組織した。生体で極悪非道な細菌実験を行い、その惨状は世界でも類のないほどのものとなった」、「日本軍は、狂った様に経済を略奪し、石炭を略奪し、食料を略奪し、木材を略奪し、豆腐を略奪し、大豆を略奪し、労働力を略奪し、多くの中国人を騙したり、捕まえたりし、工場や鉱山の現場へ連れて行き、辛い肉体労働に従事させた。これらの労働者は地獄に至る様な苦難に遭った。」、「幼い子供も労働させた。」、「日本は中国人を7,000万人殺した」「日本の戦死者は3,985、161人である。(日本軍の戦死者は大東亜戦争を通じて全体で約200万人ということであり、殆ど勝ち戦の続いた中国戦線では、そんなに多くの戦死者が出ているはずがない。中国は昔から、白髪三千丈、とよく言われるが、全く根拠の無い事を、よくも平気で過大に言えるものである。日本人では、全く考えられないことである。)」、「(自国のやっている出鱈目さは、全く棚に上げて)日本軍国主義の復活を警戒しなくてはいけない。」、「日本は、歴史教科書を曲解し、靖国参拝を強行しようとしたのである。」などということが書いて掲示してある。何の因果関係もなく「生首を並べた写真」や「骸骨を並べた写真」が各所に無数掲示してある。石原都知事の写真は、石原都知事を侮辱する様に、わざわざ斜めに掛けてある。出口には、壁に大きく血の流れている絵が書いてある。正に嘘八百の展示の連続である。

 これを見た中国人には、日本に対して、更に大きな憎悪を抱かせることとなり、自虐的な教育を受け続けている、歪んだ歴史を植え続けられている日本人がこの様なものを見れば、自虐意識を更に増幅させられることにしかならないことは自明の理である。

 私が、同地のガイド、王さんに、「この様な書き方は余りにも酷いじゃないですか?」と言ったら何と、そのガイドは、(我々からお金をもらってガイドをしている立場であるにも拘わらず、)私に対して、「これは、本当の事じゃないか!何を言うか!」とくってかかってきた。中国における反日教育の凄まじさを改めて強く認識せざるを得なかった。

 そこで、私も負けてはいない。「何!ふざけるんじゃない!こんな出鱈目な書き方をするとは何事か!」と言い返したら、「なに!ここを何処だと思っている!ここは中国だぞ!」と言ったので、私は、「何!ふざけるんじゃない!中国だったら何をしても良いと思っているのか!日本を、日本人を馬鹿にするんじゃない!」と凄い剣幕で怒鳴りつけた。そうしたら、その剣幕に押されたか、彼はやっと黙った。

その他の博物館においても、とにかく我が国に対する憎悪を植え付ける様な言辞の連続であった。日露戦争の戦跡においても、ロシアに対する恨み言は全く無いが、その一方で、日本に対してだけは、憎しみをぶつける様に記述しているのである。 

日露戦争の激戦地であった「203高地」には、乃木希典大将が、日露双方の戦死者を弔う為に、砲弾の形の慰霊碑を建立されている。

 その横に、中国が近年立てた案内板には、この様に記してある。「乃木希典は、死亡将士を記念する為、(この様なものを建てた。)―――これは日本軍国主義が外国を侵略した犯罪の証拠と恥辱柱となっている。」 と。

 日本軍が旅順を陥落させた明治38年1月2日、「水師営の会見」が行われた。この時、「乃木将軍は、ロシアのステッセル将軍に対して、帯剣を認めると共に、敗軍の将であるステッセルに対して最大の敬意を払い、その事が、両将軍の会見を取材する為に集まっていた世界のマスコミ関係者を感動させた」という事は有名な話であるが、何とその会見が行われた小さな「水師営」の建物の中にさえも、「弁髪の人間も混じっている、明らかに清国側の軍隊が農民を殺している写真」の説明が、何と、「日本軍が、農民を虐殺している写真」という説明になっている。とにかく一時が万事、全く出鱈目である。

 先日の尖閣列島への中国人上陸も中国政府の後ろ盾を得て、内諾を得ての行動であることは、おそらく間違いがない。

 中国は、ここ10数年間、毎年、軍事力の2桁アップを続け、多くの核を保有し、我が国の多くの都市にミサイルの照準を設定している。そして、小泉首相の靖国神社参拝に対して、不当な圧力を加え続け、少し内容の良い教科書が作成されたら、その教科書の検定を通すなと、全くとんでない内政干渉を平気で続けている。

 その様な、出鱈目な中国に対して、我が国は何と、これまでに約6兆5,000億円もの経済援助を続けているのである。全くお目出度いにも程がある。

 今回、同行された軍事の専門家の方が、この様な出鱈目な展示の数々を見られて、「中国は、我が国と戦争する事を本気で考えていると考えた方が間違いない。中国は1894年以来、我が国と戦って、一度も勝ったことがない。その為、江沢民は、自分の目の黒い内に、何とか、口実を作って、『日本と戦争し、日本をやっつけたい。』その思いが相当強いと思った方が間違いない。」と言っておられた。今回我々が回った反日施設を見たことのない人には、信じられないことかも知れないが、小生も同様の気持ちを抱かざるを得ないくらいに、酷いものばかりだった。

 我が国は、経済面における目先の利害得失だけに心を奪われることなく、ODAの中止を含めて、中国の現状をしっかり確認して、中国に対する外交姿勢を真剣に考え直さなくてはいけない。

 中国に対する憤りを押さえきれない旅行ではあったが、今回の旅行の中での僅かな救いは、日露戦争の激戦地であった「203高地」並びに、「南山」で多くの戦死者の方々の慰霊が出来たことだけであった。特に、「南山」では、今回、同行した3人の学生が中心となって、本格的な慰霊祭を挙行して頂いた。「若い人達にも正しい歴史を教育すれば、素晴らしい行動の取れる人間に育って行く」、そのことを改めて実感した今回の旅行でもあった。但し、この様な慰霊を日本人が行うことさえも、中国は禁止している、とのことである。今回、現地でのガイドは、その説明をしながら、「しかし、私達は何も知らなかったことにしておきます」 ということであった。

 再度、繰り返しになるが、我が国は、中国に対する外交姿勢を真剣に考え直さねばならない。

 

 

 

(当社社長と株式会社ピコイ総務の建石玲様とのメールを掲載させて頂きます。)

 

株式会社 ピコイ・社員の皆様へ 

国歌「君が代」の意味について

貴社報「強靱」を毎号お送り戴き、誠に有り難う御座います。貴誌3月1日号を拝受、拝読させて頂きました。同誌の近藤社長の巻頭言は全く同感です。

 青柳(新)専務をはじめとして、ピコイの全社員の皆さん、ピコイの真の再生も、もう間近です。「今日という日は再びこない。全力を尽くしておけば悔いはない。」「感謝の心が喜びの一切の源泉である。」「会社は人生道場」です。

近藤社長を中心として、「全即一」、ピコイの再生の為に今後とも全力を尽くして頑張って下さい。

 小生の長男・強正の結婚式の際には、近藤社長御夫妻に仲人をお引き受け頂き、大変お世話になりました。個人的には御礼を申し上げておりますが、ここに改めて、心より厚く御礼を申し上げます。

 同時に、同結婚式に、千葉の霜鳥支店長はじめ、貴社より8名の方々にも御臨席頂きました。それらの方々にも改めて、心より厚く御礼を申し上げる次第でございます。強正は貴社で3年半大変お世話になりましたが、今後とも出来る限りの御指導・御鞭撻を賜りますよう何卒宜しくお願い致します。

イラクへの自衛隊派遣は、総合的な判断として正しいことであり、我が国が少しはまともな国家になる為の一里塚でもあり、同時に、戦後長期に亘り、社会党(現社民党)や共産党並びに日教組や全教及び朝日新聞の様な反日日本人達によって歪められ続けてきた我が国が、本来あるべき国家観を取り戻す好機でもあります。

「1900年の(北清事変)義和団事件の時、(我が国も含めて)8ヶ国の連合軍を組んで、その事件を鎮圧した際、我が日本軍が最前線に出て、最も勇敢に戦い、しかも、事件を鎮圧した後、婦女暴行や略奪を全くしなかったのは我が日本軍だけであった。その為に、(当時、日の沈まぬ国と言われた)英国でさえも、我が国に対して、大きな敬意を抱き、その事が1902年の日英同盟に繋がり、その事が更に1904年から始まった日露戦争の勝因の一つにもなった」ことは周知のことでもありますが、今回の自衛隊イラク派遣が、前述1900年の義和団事件の時、我が国が世界の先進諸国から大きな敬意を抱かれたと同様の行動・働きを、我が国の自衛隊諸官が必ず果たしてくれるものと期待しています。

彼らは、「武士道の国から来た自衛隊」として、正に命懸けで、その職責を果たそうとしています。日本人で有るならば、その様な任に赴いている自衛官全員に対して、心からの称讃と感謝と応援をすべきであると思います。

「自衛隊でなくとも出来る」と反対を唱える人達は、それならば、自分達が数百人規模のボランティア隊を組織して、見事自衛隊に負けぬイラクの戦後復興の為の支援・貢献を果たして見せるべきでしょう。その様な事を全くするつもりもなく、ただ反対の為の反対を唱え続けているだけでは、これまで、長期間に亘り同様の事を繰り返してきた(旧)社会党のやってきた事と何ら全く変わりません。

「仰げば尊し」「蛍の光」を卒業式などで歌わなくなってしまったことも実に馬鹿げているとしか言い様がありません。その理由は、「先生が生徒から尊ばれるほどの自信がないから」、「教師にそんなプレッシャーを与えるのは、過大である」ということの様ですが、そんな先生は辞めればよいのであって、先生という、多くの人々に大きな影響を与え、(以前は)聖職とも言われた教職を天職とするのであれば、多くの生徒から尊ばれる先生となる為に全身全霊を打ち込むべきは、極く当然のことです。

「そうか、落第しても約束を守るのか。分かった。いいぞ、お前は偉い。」と言われた近藤さんのお父上は本当に素晴らしいですね。

戦時中、海軍工廠で働きながら、学ばれた約600名の台湾の方々(当時は日本人)の来日60周年目の卒業式のお話は、以前に別の冊子でも拝読しておりましたが、実に素晴らしいお話ですね。
 国歌「君が代」の意味について、中原行子さんのお手紙が掲載されていました。同感の部分もありましたが、解釈が若干違う点もありますので、その本来の意味をお知らせ致します。御参考になれば幸いです。

 

 

石川県・能登の「妙成寺(みょうじょうじ)」の境内に、「さざれ石(細石)が大きな巌となり、(そして苔の生したもの)」の現物が2つ有ります。そして、その横に「君が代の由来」が記されています。その概要は以下のとおりです。

〈君が代の由来〉

「『さざれ石(細石)はその字の如く小さな石のことです。細石は小さな小川やせせらぎの中にあった場合でも、知らぬ間に何処かへ流れていってしまう様な存在感の無いものであるかも知れません。しかし、我が国には古来より、何万、何十万、或いはそれ以上の多くの細石が非常に長い年月を経て、自然の中で、石灰分によってくっつけられて大きな巌となったものが多くあります。一つ一つは非常に存在感のない細石も多く集まってこの様に大きな巌となれば、少しくらいの流れが来てもびくともしない、非常に存在感のあるものとなります。我々日本人も、一人一人は細石の様に小さな力しかないかも知れませんが、国民皆で力を合わせれば大きな力となります。我が国の中心は天皇です。天皇を中心として国民皆が力を合わせて、素晴らしい国創りをして行きましょう!天皇を中心とした我が国が、巌に苔の生すまで永く栄え続けることを心より祈ります。』というのが国歌『君が代』に込められている意味です。」

 以上が、我が国の国歌「君が代」の由来です。世界に、こんなに素晴らしい国歌は他に類がありません。世界の主な国々の国歌は、まるで軍歌や戦闘歌の様な意味の歌詞が多いのです。我が国は素晴らしい国歌を持っていることを大いなる誇りとすべきです。中原さんの述べておられるとおり、上記の様な国歌の意味を学校教育の中で、きちんと教えないのは、我が国の教育関係者のとんでもない怠慢です。というよりも、そのこと(国歌「君が代」の意味を正しく教えない理由) は、彼等(反日日本人達)があまりに勉強不足の為、「殆どの教師がその国歌の真の意味を知らない」ということと、「次代を担うべき子供達に日本人としての自信や誇りを持たせたくない」という確信犯的な信条からきています。(その為に我が国の教科書もことごとく歪められ続けています。)全くとんでもない事であり、全く言語道断です。

 

 

 

(我が国の国旗「日の丸」についても少し触れさせて頂きます。)

 我が国の国旗「日の丸」は、古くは源平の戦いの頃より使われています。源平の戦い(屋島の戦い)の中で、平家側の女性が那須与一に向かい、「そちが弓の名手と聞いた。もしも、そうであるならば、わらわの持つ的を射てみよ!」と言い、那須与一は見事その的を射抜く場面があります。その時の的は扇に描かれた「日の丸」だったのです。1600年の「関ヶ原の戦い」の時、各大名の旗印とは別に東西両軍がそれぞれ「日の丸」を使用しています。

 国旗「日の丸」の意味は、

「白地」の「白色」は、古来より、日本人の感性として、白は「純粋・無垢・正義・正しい・清潔」という様なことをイメージしています。真ん中に描かれた「日の丸」は誰が見ても太陽です。我が国は先祖代々、農耕民族として、「太陽」「天地・自然の恵み」に感謝しながら長い歴史を積み重ねて来ました。その様な「太陽・天地・自然の恵みに感謝する」気持ちと、冒頭の「白地」の基本を素直に表現したのが、我が国の国旗「日の丸」です。

 世界に、こんなに素晴らしい国旗は他に類を見ません。馬鹿な社会党(現社民党)や日本共産党並びに日教組や全教及び朝日新聞の様な反日日本人の多くは、以上の様な意味も知らずに、よく分からぬままに、我が国が世界に誇るべき国歌「君が代」や国旗「日の丸」に対して、戦後、長期間に亘って全く馬鹿げた反対を続けて来ましたが、全く言語道断です。

 我々日本人は、国歌・国旗だけではなく、(我が国先人の大いなる智慧の結晶とも言える)世界に類のない歴史と文化と合理性と、(いつの世も、天皇が常に国民の幸福を祈り続けておられる)「誠(まこと)」を基本としつつ、尚且つ、天皇の高い権威によって、時の権力者の独裁や権力の行き過ぎを防ぐという、世界に誇るべき天皇制と(戦後は、前記・反日日本人達の為に大きく歪められ続けていますが、)世界に誇るべき素晴らしい歴史並びに(貴社の近藤社長が真剣に社員の皆様に訴え続けておられる)世界に誇るべき素晴らしい武士道並びに世界に誇るべき素晴らしい伝統・文化・多くの文化遺産をしっかりと認識し、遙かな父祖の方々に心より感謝をしながら、かけがえのない祖国・日本を、改めて世界に誇るべき国として、精神的な再生を成し遂げて、強い使命感と大きな自信を持って子孫に引き渡して行かねばなりません。その事が現代に生かされている我々の最大の責務でもあります。

 貴社の今後大いなる御発展と貴社の社員の皆様の御健勝と御多幸を衷心よりお祈り申し上げます。

    平成16年3月8日

株式会社KBM 代表取締役 諸橋茂一

 

 

諸橋社長様

拝復 ピコイの建石です。

ご丁寧な読後感、そしてレポート、ありがとうございました。いつもながら諸橋社長の真摯で誠実な姿勢に感動しております。

諸橋社長のご意見、いずれも全く同感です。何度も大きく頷きながら拝読いたしました。教師がただのサラリーマンに成り下がっていることは、実に嘆かわしいことです。「そんな先生は辞めればいい」正にそのとおりだと思います。相次ぐ教師の不祥事に対する処分の甘さは、教員社会の甘さそのものを表しているように思えます。

教師という職業は、自他共に正に「天職」と認められる資質と情熱を持った者以外、なってはいけないと思います。

人の人生を左右する職業なのですから、資質を認められない者は辞めさせるべきだと思います。かって教職が「聖職」と呼ばれた時代の先生達は本当に立派だったはずです。

近藤会長や、父や母から聞かされる戦前生まれの先生達は、正に子供たちのために全身全霊で教育にあたっていたと思います。

実は、私自身、かって教職志望であり、教員免許も持っております。しかし、教育実習で出向いた母校の教務室は、教師の集まりどころか、社会人の集まりとさえ思えない有様でした。

大学を出て、そのままこのような世界に入っては、私も同じただの世間知らずになってしまうと思いました。社会の厳しさを知らない教師が、これから社会を生きていくべき子供たちをいったいどうやって導いていけるのかと、大きな疑問にぶち当たりました。そんな時、教育実習に入る前にただ一社のみ面接を受けていたピコイから、内定通知、そしてそれとは別便で近藤社長からの手紙が届きました。「君のような女性は初めて見た。ぜひ一緒に仕事がしたい」この一言で決めました。もう教員採用試験は受けませんでした。そして、気が付けば10年以上が過ぎました。

私の人生の最終目標は、寺子屋です。進学塾ではなく、学校や勉強を好きになれない子供たちに、学ぶことの楽しさを教えてあげたい、そう思っています。

今は、一人で娘を育て上げることが私の一番の仕事なので、まだまだ先のことになりそうですが……。

 

「君が代」の解説、ありがとうございました。

私も「天皇を中心として…」この解釈が当然だと思っています。中原さんの解釈どおり「君」を「恋人」や「家族」とするのは、江戸時代の尊幕派・本居宣長らや、戦後の天皇制反対論者や、そしてマスコミの思惑によるものだと思っています。

中原さんの文章の掲載については、私自身、断ろうかと考えていましたが、社長がコメントをつけて載せることとなりました。

他のご意見や議論のきっかけになれば、との意図もありました。諸橋社長から懇切丁寧な解説レポートがいただけて嬉しい限りです。

ずいぶん長いメールになってしまいました。

これからも、『強靭』をご愛読いただけたら光栄です。そして、思うところがあったときには、ご感想などいただけたらとても嬉しいです。

どうもありがとうございました。長々と失礼いたしました。               かしこ

                       株式会社ピコイ 建石 玲

 

 

ピコイ総務 立石 玲 様

拝復、御丁重なる返信を頂戴し、誠に有り難うございました。

近藤会長並びに近藤社長は本当に素晴らしいですね。

卑屈な外交姿勢、自虐的で歪んだ教育、マスコミの低俗番組、野放し状態の低俗ビデオや低俗雑誌、人のことは見て見ぬ振りをする人達の圧倒的増加、多くの教師並びに政治家の使命感の欠如、並びに基礎学力の低下、及び歴史(特に近代史)の不勉強による歴史観・国家観・世界観の欠如、朝日新聞を筆頭に多くのマスコミの偏向報道…等々、今の我が国には非常に多くの問題が山積しております。

今の様な日本では、大きな使命感を抱かれて明治維新の前後より我が国の為に、かけがえのない命を投げ出された方々を始めとして、我が国の長い歴史を創り上げて来られた遙かな父祖の方々に対して本当に申し訳がないと思います。

戦争には負けたとはいえ、昭和二十年代〜三十年代は未だ残っていたはずの「男は男らしく、女は女らしく、正々堂々と、卑怯な事はするな、弱い者いじめはするな、義を見てせざるは勇なきなり、嘘をついてはいけない、人の物を盗ってはいけない、長幼の序、犠牲的精神、武士道精神」等々、我々の先祖代々大切にしてきたはずの素晴らしい、人間としての、日本人としての生きる基本は一体何処へ行ってしまったのか?

「日本人はあまりにも優秀過ぎる。日本が再び、欧米の脅威とならぬ様にする為に、日本人を徹底的に弱体化しなくてはいけない」という考え方の下に「3R5D3S政策」並びに「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」を基本政策として、7年の占領期間を通じて、我が国の(特に男の)弱体化を徹底的に図った、その張本人のマッカーサーでさえも、恐らくあの世でびっくりしているでしょう…「日本人も、ここまでひどくなるとは思わなかった」…と。

マッカーサーは、戦後の一時期、「柔道や剣道は日本人を(特に男を)心身共に立派にするものであるから駄目だ」という理由で禁止しました。加えて、(周知のことですが)日本人に対して一方的な罪悪感を植え付ける為に、国際法に大きく違反して「東京裁判」を実施し、被告に一切の反論も認めず、一方的に断罪し、7名の方々を勝手にA級戦犯と呼んで絞首刑にしました。それだけではあきたらず、何と1千数十名の方々を本人の弁明など全く聞かずに処刑しました。同時に、(これも同様に国際法に大きく)違反して、現憲法を押し付けると共に、それまであった「教育勅語」は素晴らし過ぎる、という理由で廃止させ、現教育基本法を押し付けました。そして、教科書から、日本人としての誇りに繋がる様な内容は、出来る限り、削除させました。マスコミに対しては徹底的に報道規制を行って、日本人に対して、一方的な罪悪感を植え付ける様な報道を強制しました。しかし、その張本人のマッカーサーでさえも、昭和26年、当時のトルーマン大統領に解任されて、米国に帰った後、同年5月3日、上院の軍事外交合同委員会においての証言で、「日本が戦ったのは、その多くは、日本の安全保障の為であった。」つまり、「日本が戦ったのは、自衛戦争であった」と言っているのです。にも拘わらず、未だに多くの日本人が、マッカーサーの呪縛から逃れられないでいることは、非常に情けない限りです。

その責任は、教育関係者並びに我が国の指導的立場にいる人々にあると言わざるを得ません。特に日教組を始めとする教育関係者の責任は実に重大なものがあります。

昭和27年、日教組の結成大会の時のスローガンは、「教師は労働者である」、(だから)「教師がストライキをして何故悪い」であったということです。その時点で、我が国の教育関係者の多くが「聖職」を放棄したのです。全くお粗末極まりのないことです。

古今東西を問わず、教育は国歌百年の大計です。長期間に亘り、その大切な教育を歪め続けてきた弊害は余りにも大きなものがあります。

しかし、ただ嘆いてばかりいても仕方がありません。

何が何でも、歪んだ教育を正常化すると共に、遙かな父祖の方々が必死の思いで築き上げて来られた、かけがえのない祖国・日本を、再び「日本人としての自信と誇りを持てる国家に創り直して、しっかりと子孫に、後世に受け継いで行かねばならない」といつも念じ続けております。

しかし、建石さん、大丈夫です。我が国には未だ近藤社長の様な素晴らしい日本人が少なからず残っていますから。

小生もついつい長くなってしまいました。弊社の社報をお送りさせて頂きます。お目通し頂ければ幸いです。

近藤会長と近藤社長にくれぐれも宜しくお伝え下さい。                  敬具

平成16年3月10日                 諸橋茂一

 

追伸 建石さんから頂戴したメールを弊社の社報に掲載させて頂いても宜しいでしょうか?

 

 

諸橋社長様

 

拝復 重ねてのご丁寧なお返事ありがとうございました。

私のメールの拙い文章を、御社の社内報に載せていただくなど、とても気恥ずかしく思いますが、それ以外にお断りする理由はありませんし、差し上げたものですので、ご自由にどうぞお使いください。

強正さんにも、どうぞ宜しくお伝えくださいませ。                   かしこ

平成16年3月10日                株式会社ピコイ  建石  玲

 



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