諸橋茂一の言語道断

江田島旧海軍兵学校 訪問記

 先日江田島旧海軍兵学校を初めて訪問した。
 同校は、広島県江田島町にあり、元々は東京築地にあったが、明治21年に現在地に移転したという。
 海軍将校養成の基地として、若い人の憧れを集めてきたという。数多くの将校の卵達が、ここで厳しい訓練を受け、日本の海軍の要として巣立って行った。戦後は、米軍に接収されたが、昭和31年には解除され、現在は海上自衛隊の幹部候補生学校や第一術科学校となっている。
 教育参考館には、日露戦争でロシアの旅順艦隊やバルチック艦隊を壊滅させ、イギリスのネルソル提督と米国のジョンポールジョンズ提督と共に「世界の三提督」と今でも称え続けられている東郷平八郎元帥の遺髪をはじめ、旧海軍関係の資料等約14,000点が展示されている。
 吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬、西郷従道海軍大臣、山本権兵衛、軍神広瀬武夫、上村彦之丞大将、佐久間勉艦長、秋枝三郎中佐、山本五十六元帥、柳本柳作少将、加来止男少将、山口多門少将、堀内豊秋大佐、南郷茂草少佐のことや、日露戦争豊島沖海戦、同膨湖島上陸、同黄海海戦、日華事変、南昌新飛行場爆撃についても詳しく展示されている。
 特潜により、マダガスカル島とオーストラリアのシドニー湾に侵入し、大きな戦果を上げた第二次特別攻撃隊や「回天」特別攻撃隊を初めとして多くの特別攻撃隊の方々の攻撃詳細と共に多くの方々の遺書も展示してある。
 それらの遺書の文字、文章共に実に立派である。とても20才前後の人達が書いたものとは思えない。
 今の40代、50代、或いはそれ以上の年代の人達でも、これ程素晴らしい文字や文章を書くことの出来る人は極く希であろう。それらの遺書の中には、国のことを、両親のことを、妻のことを、兄弟のことを真剣に思い、祖国日本と大切な妻子、親兄弟を護る為に敢えて自らの命を投げ出す心情が非常に冷静に記されている。
 当時の方々が如何に真剣に文武両道、自分自身を高める為に、日々真剣な努力を重ねておられたかが一目瞭然である。
 それに比べて、今現在の我が国の教育は如何に中途半端な、好い加減な教育をしているかを思い知らされる。教育の根本は人間を創る、人物を創ることにある、ということを殆ど忘れてしまっている。
 我々は戦後教育の中で、我が国の戦前は全て悪かったかのような、大いなる錯覚を与える教育を受け続けて来ている。しかしこの展示館をじっくりと見学すれば、それは全く逆である、大いなる間違いであることに誰でも気づかずにはいられない。
 この展示館の遺書等を熟読して、その時代の若い方々よりも自分の方が余程立派である、と自信を持って胸を張ることの出来る人間は、誠に残念ながら今の日本人には殆どいない、と言っても決して過言ではない。
 三年前、一年を通して受講した「社長学研修」の先生、一倉定先生が、何度も「とにかく江田島に行きなさい。今の我が国において江田島ほど勉強になる所はない」と言われた意味が良く分かる。
 清掃、環境設備も非常に徹底している。
 一倉先生の言われたとおり、「江田島に来て本当に良かった」とつくづく思った次第である。
 処が、江田島の帰り、フェリーの中で江田島にある大柿高校の生徒達がとんでもない格好で乗船していた。
 7〜8人の男子高校生の中の三人が何とパンツが全て見える状態、つまりパンツ丸だしの状態で尻の下にベルトを締める状態でズボンをはいているのである。
 びっくりすると同時に、怒りがこみ上げて来た。しかし少年による殺人事件が続発している昨今、不用意に時と場所を選ばずに怒るわけにはいかない。その様な危険も充分念頭に置き、フェリーを下船した後、充分時と場所を見極めて、悪い中でも特に悪そうな二人の高校生に向かって怒鳴りつけた。
 「オイッお前達、そんな馬鹿な格好をしていて親も先生も何も言わないのか!きちんとズボンを持ち上げろ!」
 怒鳴りつけながら、同じ年代の人間でも、しっかりとした教育をすれば、旧海軍兵学校生の方々の様に素晴らしい人物に育ち、好い加減な教育をすると、こんな出鱈目な人間になってしまう。今の日本は狂っている、間違っている、と思わずにはいられなかった。
 いじめ問題、学級崩壊、少年による凶悪犯罪・・・等が続発している根底、背景には、この様な学校教育のお粗末さが大きな問題としてある。教師の再教育をしなくては我が国の将来は非常に危うい。
 もちろん、ただ単に教師の質の問題だけでなく、自虐的教科書や、マスコミの偏向報道、家庭におけるしつけの不徹底、テレビの低俗番組や俗悪テレビゲーム、少年少女向け俗悪雑誌等の社会環境等々、大きく間違っているところを根本的に真剣に改めて行かねば我が国の明日はない。
 何としてでも、まともな日本に創り直さなくてはいけない。日本人として自信と誇りを持てる国に創り直さなくてはいけない、と(日頃からそう思っているのだが、改めて)強く強く思わざるを得なかった。  以上

平成12年9月